御用邸
(重定向自那須御用邸)
御用邸(日语:御用邸/ごようてい Goyōtei */?)是日本天皇、皇族的別墅。一般而言,一年可能因靜養、避暑、避寒等目的訪問御用邸。根據宫内厅的定義,達到一定規模以上建築與面積者稱為離宮,而規模較小者則為御用邸。
現存御用邸
- 那須御用邸(那須御用邸/なすごようてい Nasu-goyōtei)
- 栃木縣那須郡那須町(37°5′16.7″N 140°1′25.2″E / 37.087972°N 140.023667°E)、完工於1926年(大正15年 / 昭和元年)
- 主要在8月 - 9月訪問。
- 2008年(平成20年)因天皇、皇后的意願,首次在秋季(10月24日 - 27日)訪問。
- 2011年(平成23年)時,因應同年3月11日發生的東日本大震災,依據天皇、皇后之意願,對福島縣的受災戶提供開放浴室等一部分設施。[1]。
- 2011年(平成23年)5月22日,御用邸敷地的約一半開始向公眾開放,並作為那須平成之森開園。
- 由於那須御用邸保存了豐富的自然環境,第125代天皇明仁認為應該提供國民親近大自然的環境,因此於2007年(平成19年)將御用邸敷地約一半的570公頃由宮內廳移交予環境省,經過四年的自然環境監視調査、設施整備、步道鋪設等工程之後,於2011年(平成23年)5月22日以天皇陛下即位20週年紀念的名義,作為日光國立公園那須平成之森開園[2]。
- 葉山御用邸(葉山御用邸/はやまごようてい Hayama-goyōtei)
- 神奈川縣三浦郡葉山町(35°15′40.7″N 139°34′41.4″E / 35.261306°N 139.578167°E)、完工於1894年(明治27年) -
- 主要在2月 - 3月訪問。大正天皇崩御之處。
- 1894年(明治27年)啟建。嘉仁親王(後為大正天皇)在幼年時期身體狀況不佳,侍醫埃爾溫·貝爾茲建議應於葉山興建休養地[3]。
- 1926年(大正15年)12月25日,因大正天皇崩御,皇太子裕仁親王踐祚。葉山御用邸旁設置了裕仁親王踐祚記念碑。
- 1971年(昭和46年)建築物燒毀(葉山御用邸放火事件),於1981年(昭和56年)重建。
- 1987年(昭和62年)附屬邸跡地作為葉山潮騷公園開園。公園內的潮騷博物館展示了昭和天皇採集的生物標本。
- 須崎御用邸(須崎御用邸/すざきごようてい Suzaki-goyōtei)
- 静岡県下田市須崎(34°40′6.9″N 138°58′32.1″E / 34.668583°N 138.975583°E)、完工於1971年(昭和46年) -
- 主要在7月 - 8月訪問。舊時三井財閥的別墅,由日本國政府買下改建為御用邸。
- 邸内設有私人海灘。
舊時存在的御用邸
- 橫濱御用邸(伊勢山離宮)(神奈川縣橫濱市) - 1875年(明治8年)設置、1884年(明治17年)廢止。後來由橫濱港海軍東海鎮守府跡代用。伊勢山皇大神宮旁。
- 神戶御用邸(兵庫縣神戶市) - 1886年(明治19年)設置,現為神戶臨海樂園(神戸ハーバーランド)的一部分。
- 熱海御用邸(静岡縣熱海市) - 1888年(明治21年)設置,1928年(昭和3年)廢止。現在是熱海市役所。
- 伊香保御用邸(群馬縣伊香保町) - 1890年(明治23年)設置、1945年(昭和20年)廢止。現在是群馬大學伊香保研修所。
- 山內御用邸(栃木縣日光市) - 1890年(明治23年)設置。現在是日光東照宮社務所。
- 沼津御用邸(静岡県沼津市) - 1893年(明治26年)設置,1969年(昭和44年)廢止。現在是沼津御用邸記念公園。
- 宮之下御用邸(神奈川縣箱根町) - 1895年(明治28年)設置。後為高松宮家別邸,現在是富士屋飯店別館菊華荘。
- 田母澤御用邸(栃木縣日光市) - 1899年(明治32年)設置、1947年(昭和22年)廢止。現在是日光田母澤御用邸記念公園。
- 幕末至明治年間,天皇家的子嗣夭折甚多,1883年(明治16年)由侍醫連名提出改善案,其中提出建設避暑用離宮的計畫,因此建設了箱根離宮(恩賜箱根公園)與日光御用邸[4]。然而,明治天皇因為腳氣病問題而從未造訪[4]。
關聯項目
文獻
- 澤村修治 『天皇のレゾート 御用邸をめぐる近代史』 2014年 図書新聞 ISBN 978-4-88611-460-0
- 上記の本は御用邸一般に関しても詳しい。
出典
- ^ asahi.com(朝日新聞社):御用邸の風呂、被災者へ提供 眞子さまらタオル袋詰め - 社会. [2020-10-09]. (原始内容存档于2011-03-27).
- ^ 那須平成の森 開園の経緯. [2020-10-09]. (原始内容存档于2012-11-07).
- ^ 澤村[2014:20-70]
- ^ 4.0 4.1 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題 (页面存档备份,存于互联网档案馆)深瀬泰旦、日本医史学雑誌 第61巻第2号(2015)