藤原麻呂
藤原 麻呂(日語:藤原 麻呂/ふじわら の まろ Fujiwara no Maro,695年(持統天皇九年)—737年8月17日(天平九年七月十三))是日本奈良時代的貴族。藤原不比等的四子,也是藤原四兄弟中年紀最輕的一位。官至從三位・參議。是藤原京家的開山鼻祖。
日語寫法 | |
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日語原文 | 藤原 麻呂 |
假名 | ふじわら の まろ |
平文式羅馬字 | Fujiwara no Maro |
經歴
養老元年(717年)任從五位下・美濃國司。父・不比等去世後翌年的養老5年(721年)一舉升晉從四位上,任左右京大夫。神龜3年(726年)敘正四位上。神龜6年(729年)麻呂與兄弟策劃長屋王之變,使長屋王倒台,之後晉升從三位位列公卿。天平3年(731年)因官人等的推舉與其兄・宇合共任參議。同年以兵部卿兼山陰道鎮撫使。
天平9年(737年)任持節大使、陸奧按察使兼鎮守將軍・與大野東人一起,建造了自多賀城出發經雄勝村的由陸奧國往出羽國的直通路。同年歸京、因當時流行的天花於7月13日薨去。享年43。最終官位達參議兵部卿從三位。因為當時四兄弟短期間相繼過世,有推測指出可能是因為四人間互相看望導致傳染的原因。
藤原京家的由來正是因為麻呂曾任京職大夫。
人物
系譜
參考文獻
- 関本みや子「萬葉後期贈答歌の様相-藤原麻呂・坂上郎女贈答歌群をめぐって-」、『上代文學』50、1983年
- 奈良國立文化財研究所『平城京長屋王邸跡』本文編、吉川弘文館、1996年
- 橋本達雄「藤原麻呂、大伴郎女の贈答歌と巻十三」、『専修國文』54、1994年
- 北野 達「藤原麻呂との贈答歌」、『セミナ―萬葉の歌人と作品』10巻、2004年
- 遠藤 宏「最初期の大伴坂上郎女-藤原麻呂との贈答歌をめぐって-」、『國語と國文學』74-4、1997年
- 林 陸朗「天平期の藤原四兄弟」、『國史學』157、1995年
- 木本好信「藤原麻呂の前半生について」、『甲子園短期大學紀要』28、2010年
- 木本好信『藤原四子』、ミネルヴァ書房、2013年