兴留藩
兴留藩(日语:興留藩/おきどめはん Okidome-han */?)是日本大和国平群郡兴留的藩[注 1],贞享3年8月29日(1686年10月16日)创藩,元禄6年11月25日(1693年12月21日)废藩,石高是10,000石,藩厅是兴留阵屋[2][3]。
兴留藩 | |
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谱代 阵屋 | |
日语汉字 | 兴留藩 |
平假名 | おきどめはん |
罗马拼音 | Okidome-han |
创藩日期 | 贞享3年8月29日(1686年10月16日) |
所在地 | 大和国平群郡兴留 |
藩厅 | 兴留阵屋 |
大名家 | 藤井松平家 |
石高 | 10,000石 |
废藩日期 | 元禄6年11月25日(1693年12月21日) |
废藩理由 | 转封 |
历史
贞享3年7月22日(1686年9月9日),下总古河藩藩主老中松平信之死去[4],其90,000石领地中80,000石由长子松平忠之继承。同年8月29日(10月16日),信之次子松平信通继承剩余10,000石领地,并且将阵屋设于兴留字西垣内而创藩,根据《庄屋武兵卫觉书》记载,阵屋在元禄2年(1689年)完工,领地是平群郡21村、葛下郡4村和葛上郡7村[2][3][1]。
元禄6年(1693年)6月,信通奉命看管罪人仁木甚右卫门。同年11月25日(12月21日),忠之由于发狂而被改易,信通获准继承藤井松平家本家,并且获加增20,000石而转封至备中庭濑藩[2][3]。兴留藩也就此废藩,领地均变为幕府领[5],阵屋则在元禄7年(1694年)7月被拆毁[2]。
领地
令制国 | 郡 | 领地 |
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大和国 | 平群郡 | 奥富村(兴留村)、五百井村、服部村、小吉田村、西势野村、南畑村、久安寺村、信贵畑村、西之宫村、岩井村、吉田村、上庄村、乙田村、阿波村、幸前村、西安堵村、东安堵村、新家、冈崎村、洼田村、西村 |
葛下郡 | 神乐村、土库村、今里村、田井村 | |
葛上郡 | 柏原村、原谷村、池之内村、南室村、下茶屋村、富田村、樋野村 |
注解
参考资料
- ^ 1.0 1.1 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、永岛福太郎、木村博一、狩野久、千田稔 (编). 興留藩・興留. 角川日本地名大辞典 奈良県. 角川日本地名大辞典 29 日本文学Web図書館. 角川书店. 1990-03-08. ISBN 4-040-01290-9 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 谷山正道. 興留藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 近畿編 5 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 154–155. ISBN 4-639-10039-6 (日语).
- ^ 3.0 3.1 3.2 森田义一. 興留藩. 藩主人名事典编纂委员会 (编). 三百藩藩主人名事典 3. 新人物往来社. 1987-04-10: 556. 国立国会图书馆书志ID:000001879214 (日语).
- ^ 松平信之. kotobank (日语).
- ^ 池田末则、横田健一、朝仓弘、大矢纪美枝、大矢良哲、木村芳一、广吉寿彦 (编). 奥富村. 奈良県の地名. 日本历史地名大系 30 JapanKnowledge. 平凡社. 1981-06-23. ISBN 4-582-49030-1 (日语).